青い紐

『青い紐』の解説

この作品を含む以下の12作品は、『黒雨集』には以下の順で収録されています。(川山) 「あかんぼの首」(新字旧仮名) 「水郷異聞」(新字旧仮名、新字新仮名) 「蛾」(新字旧仮名) 「雨夜詞(萌黄色の茎)」(新字旧仮名、新字新仮名) 「青い紐」(新字旧仮名、新字新仮名) 「提灯」(新字旧仮名、新字新仮名) 「蟇の血」(新字旧仮名、新字新仮名) 「海異志」(新字旧仮名) 「黒い蝶」(新字旧仮名) 「雑木林の中」(新字旧仮名、新字新仮名) 「牡蠣船」(新字旧仮名、新字新仮名) 「白いシヤツの群」(新字旧仮名)※公開に至っていない場合は、リンクが機能しません。

  • タイトル青い紐
  • 著作者田中 貢太郎
  • 書籍名日本怪談大全 第二巻 幽霊の館
  • 出版社国書刊行会
  • 出版年1995年8月2月
  • 制作年?
  • 製作国不明
  • 言語新字新仮名
  • 著作権状態パブリック・ドメイン
  • 『青い紐』の全文

    桃山哲郎は銀座尾張町の角になったカフェーでウイスキーを飲んでいた。彼は有楽町の汽車の線路に沿うたちょっとしたカフェーでやった仲間の会合でたりなかった酔を充たしているところであった。

    もう客足が斑になってそこには前のすぐストーブの傍のテーブルに、一組三人の客がいるばかりであたりがひっそりして、その店に特有な華やかな空気がなくなっていた。哲郎はその静かな何者にもさまたげられない環境に心をのびのびとさして、夢のような心持で宵に聞いた女の話を浮べていた。

    それは放胆な露骨な話であった。旧派俳人の子で文学志望者の壮い男のした話は、某婦人が奇怪な牛乳を用いたために妊娠したと云う話であった。その晩入会した美術家の一人が入会の挨拶にかえてした話は、その春歿くなったという仲間の美術家の話であった。その仲間と云うのは、洋画家で可成天才があり、絵の評判も好く、容貌も悪い方ではなかったが、どうしても細君になる女が見つからなかった。その見つからないにはすこし理があった。しかし、それはごく親しい兄弟のようにしている友人でなければ判らないことであった。こんなことで洋画家の細君を見つけてやろうとした友人達も、ちょっと手にあましていたところで、そのうちに大阪の方で女学校を卒業した女があって、それが洋画家の足りないところを充たすことができそうだと云うことになった。で、骨を折って結婚さしてみると、その目ききはすこしもちがわないで、傍の者を羨ますような仲の好い夫婦が出来た。美術家はその話の中に、

    (それこそ、二人は相逢うの遅きを怨むと云うほどでしたよ)と云う形容詞を用いて皆を笑わした。

    哲郎も腹を抱えて笑ったことを思いだした。美術家はそれから洋画家夫婦にすぐ子供の生れたことを話した。その生れた子供は毎日のように婢の手に抱かれて、正午比と夕方家の前へ出ていた。子供はひいひい泣いている時があった。通りかかった知己の者が訊くと、

    (奥さんは、今、旦那さまとお書斎でお話をしておりましてね)

    などと云った。はじめにいた一度結婚したことのある婢は、何故かすぐ逃げだしてしまったと云うことも思いだした。彼の考えは頻に放縦な女の話へ往った。彼は中学生対手の雑誌を編輯している文学者の話した、某劇場の前にいた二人の露西亜女の処へ往って、葡萄酒をたくさん飲まされて帰って来たと云う話を思いだした。と、発育しきった外国婦人の肉体が白くほんのりと彼の眼の前に浮ぶように感じた。

    (銀座の某店の前で、ステッキを売っている婆さんに、ステッキを買うふりをして訊くと、女を世話してくれる)

    何時も話題を多く持っている壮い新聞記者の話したことが浮んで来た。そこで彼はそのステッキを売っていると云う老婆に興味を感じて、そこへ頭をやったとこで時間のことが気になって来た。彼はカップに手をやったなりに顔をあげた。

    時計は十二時に十五分しかなかった。彼は己の物たりなさを充たしてくれる物は、上野の広小路あたりにあるような気がした。彼はすぐ広小路まで帰ろうと思った。そう思うとともに、彼の頭の一方に雨の日の上野駅の印象が浮んだ。その印象の中には赤い柿の実が交っていた。彼はその印象をちらちらさしながら勘定のことを考えた。

    「おい、勘定」

    カップにすこし残っていたソーダ水を割ったウイスキーを口にしながら上野駅の印象の続きを浮べてみた。雨に暮れかけた上野駅では東北の温泉町からいっしょに帰って来た六七人の者がばらばらになって帰りかけた時、随筆家として世間に知られている親しい友人から呼び止められた。随筆家の友人は土産にと持って来た柿の籠をいっしょに持って往って置いてくれと云った。

    (おい、けしからんことを云うなよ)

    と云って笑ったことを思いだした。随筆家の友人と話題を多く持っている壮い新聞記者が、糠雨のちらちら降る中を外の方へ歩いて往った姿も浮んで来た。その二人は前晩泊った温泉町から電報を打って停車場もよりの家へ某事を頼んであるので、その家へ往って夜を明かし、己の家へは翌朝の汽車で帰ったような顔をして帰ると云うことになっていた。彼は二人を見送ってから車を雇い、随筆家の友人の柿もいっしょに積んで、大塚の家へ帰ったことを思いだした。

    そこへ十八九に見える姿の好い女給が勘定書を持って来た。彼はインバの兜衣から蟇口を出してその金を払うとともにすぐ腰をあげた。

    哲郎は電車に揺られてうっとりとなりながら女のことを考えていた。その女の中には彼の洋画家の細君であると云う女の、想像になった長い骨を蒼白くくるんだ肉体も浮んでいた。

    一二年前に横浜の怪しい家で知った独逸人の混血児と云う女の肥った肉体もその中に交っていた。それ等の女の肉体は電車の動くたびに動くような気がした。

    客のすくない電車の中は放縦なとりとめもないことを考えるにはつごうがよかった。彼の頭の中には細っそりした小女の手首の色も浮んで来た。

    「……黒門町」

    哲郎は夢から覚めたように眼を開けて己と云う物に注意してから、今度は車の前の方へ眼をやった。そして、彼は次に来る広小路を乗りすごさないようにと思った。

    ちょっと車体に動揺を感じて、それがなくなったところですぐ停ってしまった。電車はもう広小路へ来ていた。哲郎はすぐ起っておりた。他にも二人の客がその後からおりて来たが、物の影の走るように彼の傍を通り抜けて電車の前を横切り、大塚早稲田方面の電車の停まる呉服店の角の方へ走って往った。

    哲郎は微暗い中に立っていた。風のない空気の緩んだ街頭はひっそりとして、物音と云っては今彼を乗せて来た電車が交叉点を越えて上野のほうへ走っている音だけであるが、それさえ夢の国から来る物音のように耳には響かなかった。四辻のむこう角になったカフェーのガラス戸を開いて、二三人の人影が中からにょこにょこと出て来たがそこにもなんの物音もしなかった。哲郎はその物音のしないのが物たりなかったが、しかし、広小路へ来たと云う満足が彼の気もちを傷つけなかった。彼はとにかくむこうへ往こうと思ってカフェーの方へ歩いた。

    廐橋のほうから来たらしい電車がやはり何の音もさせないで来るのを見た。哲郎はゆっくりとレールの上を踏んで歩いた。と、後から来て彼の左側をすれすれに通ってむこうへ往こうとする者があった。それは壮い小柄な女であった。女は揮り返るようにちょと白い顔を見せた。女は長い襟巻をしていた。

    彼はすぐこの女はどうした女であろうと思った。こうして十二時を過ぎているのに一人で歩いているところを見ると、決して正しい生活の女でないと思った。そう思うとともに彼は探していた物を探しあてたような気がした。

    「もし、もし」

    彼は何か女に云ってみようと思った。と、女はまた白い顔をちらと見せた。

    「路が判らなくて困ってるのですが」

    女の口元が笑うようになって見えた。彼は安心して女の方へ寄ろうとした。と、女の体はひらひらと蝶の飛ぶようにむこうへ往って、もうカフェーの前を越えていた。彼は失望した。失望するとともにあの女はある種の女ではないと思った。

    むこうから鳥打を冠りインバを着た男が来た。哲郎はこの男は刑事か何かではないかと思った。彼はそうして今女に話しかけようとしたことを思いだして、もしあんな時に追っかけでもしていようものなら、ひどい目に逢わされたかも判らないと思った。彼はすこし気が咎めたが、しかし、むこうの方に幸福が待っているような気がするので、引返そうとする気もしなければ、そこのカフェーへ入ろうとする気も起らなかった。

    夜店の後の街路には蜜柑の皮やバナナの皮が散らばっていた。哲郎はそこを歩きながら今の女はどこへ往ったろうと思ってむこうの方を見た。むこうには微暗い闇があるばかりで人影は見えなかった。彼は女はどこかこのあたりの者だろうと思った。

    哲郎は戸の閉った蕎麦屋の前へ来ていた。微に優しい声で笑うのが聞えた。彼はその方へ顔をやった。壮い女が電柱に身を隠すようにして笑っていた。それは長い襟巻で口元を覆うようにしたあの女であった。

    「あ」

    哲郎はもう何も考える必要はなかった。彼は女の傍へ往った。

    「僕は電車に乗って帰るのが惜いような気がするから、こうしてぶらぶら歩いてるのです、どうです、いっしょに散歩しませんか、すこし遅いことは遅いが」

    女は電柱を離れて寄って来た。黒い眼と地蔵眉になった眉がきれいであった。

    「あなたは、どちらです、遠いのですか」

    「近いのですよ」

    「どうです、散歩しませんか、どっか暖い物をたべる家でも好いのですが」

    「そうね、でも、もう遅いから、私の家へまいりましょう」

    「往っても好い、かまわないのですか」

    「私、一人ですから好いのですよ」

    「下宿でもしているのですか」

    「間借をしているのですよ、二階の屋根裏の穢い処よ」

    「けっこうですな」

    もう女は歩きだした。哲郎は何かたべ物でも買って往きたいと思いだしたが、さて何を買って好いやら、この夜更に何があるものやらちょと思いだせなかった。

    「何か買って往きましょうか、たべる物でも」

    女は顔をこちらに向けた。

    「もう何も売ってやしませんわ、好いでしょう、家へ往きゃ何かつまらん物がありますから」

    「そうですか」

    哲郎は怪しい女の生活を思い出してキューラソー位はあるだろうと思った。彼はもう何も云わずに女に跟いて歩いた。

    女はそこの横町を左へ曲った。むこうから待合の帰りらしい二人の壮い男が来たが、その二人の眼は哲郎の方へじろじろと注がれた。彼はきまりが悪かった。

    「こっちよ」

    女の小さな声がした。女は狭い路次を入った。哲郎は暗い処で転ばないようにと脚下に注意しいしい往った。左の方はトタン塀になって、右側に二階建の長屋らしい家の入口が二つ三つ見えた。

    「黙ってついてらっしゃい」

    女はそこの入口の雨戸をそうと開け、それから格子戸を開けて入った。哲郎も続いて入ったが、下の人に知れないようにと咳もしなかった。

    あがり口の右側に二階の梯子段が薄すらと見えていた。哲郎は女に押あげられるようにされてあがって往った。

    上には蒼白い燈の点いた六畳の室があった。室の中には瀬戸物の火鉢があって、それを中に二枚の蒲団が敷いてあった。むこうの左隅には小さな机があって、その上に秋海棠のような微紅い草花の咲いた鉢を乗せてあるのが見えた。

    「穢い処よ」

    女は後の障子を締めて入って来た。哲郎は立ってインバのボタンをはずしていた。

    「お坐りなさいましよ」

    女は襟巻を机の上へ乗せて、その方を背にして一方の蒲団の上に坐った。哲郎もインバを脚下へ置いてから、女と向きあうようにその青い地に何か魚の絵を置いたメリンスの蒲団の上に坐った。

    二人の手と手は火鉢の上で絡みあった。

    哲郎は女の顔を見るのがまぶしかった。

    「どうです」

    哲郎は笑った。彼はそれ以外に云う詞がなかった。

    女も笑っていた。女の眼は絡みあっている哲郎の手端へ来た。

    「暖いわ、ね」

    「会があって今まで飲んでいたから、暖かいでしょう」

    「お酒をおあがりになって」

    「すこし飲むのです」

    「じゃ、お酒をあげましょうか」

    「ありますか」

    哲郎は形式だけでも酒があると話がしよいと思った。

    「ありますわ、私いただかないから、貰ったのをそのままにしてあるわ」

    女は顔をあげて右の鴨居の方を見た。そこには小さな棚があってボール箱もあれば木箱も見えていた。

    「味はどうですか、青い色をした酒よ」

    女がそう云って起とうとするので、哲郎は絡んでいた指を解いた。と、女は起って棚の黄ろなボール箱に手をやろうとしたが達かなかった。

    「執ろう、飲む者が執りましょう」

    哲郎は起って女と並んだ時、爪立ちを止めた女の体がもったりと凭れて来た。哲郎はその女の体を支えながらボール箱に手をやった。と、今まで気が注かなかった天井から垂れている青いワナになった紐が、ちらと眼に注くとともにそれがふわりと首に纏わった。彼は左の手でそれを払いのけようとしたところで、凭れかかって来た女の体に石のような力が加わって彼の体を崩してしまった。彼は唸り声を立てた。

    哲郎が意識を回復した時には、微暗い枕頭に二人の男が立っていた。

    「お前さんは何んだね、ここへ何しに来たのだね」

    哲郎は女に伴れられて下の人に知らさずにそっと来ていることに気が注いた。彼はこうなれば女に弁解して貰うより他に手段がないと思った。彼は起きて四辺を見たが女の姿は見えなかった。

    「ここにいる女の方といっしょに来たのですが、どこへ往ったのでしょうか」

    「ここにいるって、ここには何人もいないが、何人にも貸してないから」

    「おかしいな、僕はそこの蕎麦屋の前でいっしょになってやって来て、棚に酒があると云って女が執ろうとしたが、棚が高くて執れないから、私が執ってやろうとすると、女が凭れかかって来る拍子に、そこの天井からさがってた青い紐が、首へかかって、それっきり知らなくなったのですが」

    哲郎は棚の方を見た。紐もなければ古い煤けた棚には何も見えなかった。

    「判った、よし、好い、まあ、下へお出で、お前さんに話がある」

    それは頬から頤にかけて胡麻塩髯の見える労働者のような男であった。哲郎は意味が判らなかったが、腑に落ちないことだらけであるから、とにかくくわしいことを聞こうと思って、傍にあるインバを持ち、前になっておりて往く二人の後から跟いて往った。

    胡麻塩の男はそこの主翁で、一人は隣家の男であった。主翁は火のない長火鉢の傍で小さな声で云った。

    「五六年前に、バーの女給をしてた女が、なんでも男のことかなんかで、あすこで死んだそうですよ、私達は一昨年移って来て何も見ないが、へんなことがあると云って、貸す人も貸す人も三月とはいないのですよ」

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