青い紐

『青い紐』の解説

この作品を含む以下の12作品は、『黒雨集』には以下の順で収録されています。(川山) 「あかんぼの首」(新字旧仮名) 「水郷異聞」(新字旧仮名、新字新仮名) 「蛾」(新字旧仮名) 「雨夜詞(萌黄色の茎)」(新字旧仮名、新字新仮名) 「青い紐」(新字旧仮名、新字新仮名) 「提灯」(新字旧仮名、新字新仮名) 「蟇の血」(新字旧仮名、新字新仮名) 「海異志」(新字旧仮名) 「黒い蝶」(新字旧仮名) 「雑木林の中」(新字旧仮名、新字新仮名) 「牡蠣船」(新字旧仮名、新字新仮名) 「白いシヤツの群」(新字旧仮名)※公開に至っていない場合は、リンクが機能しません。

  • タイトル青い紐
  • 著作者田中 貢太郎
  • 書籍名伝奇ノ匣6 田中貢太郎日本怪談事典
  • 出版社学研M文庫、学習研究社
  • 出版年2003年10月22月
  • 制作年?
  • 製作国不明
  • 言語新字旧仮名
  • 著作権状態パブリック・ドメイン
  • 『青い紐』の全文

    桃山哲郎は銀座尾張町の角になつたカフエーでウイスキーを飲んでゐた。彼は有楽町の汽車の線路に沿うたちよつとしたカフエーでやつた仲間の会合で足りなかつた酔を充たしてゐるところであつた。

    もう客足が斑になつて其処にはすぐ前のストーブの傍のテーブルに一組三人の客がゐるばかりであたりがひつそりとして、その店に特有な華かな空気がなくなつてゐた。哲郎はその静かな何者にもさまたげられない環境に心をのびのびとさして、夢のやうな心持で宵に聞いた女の話を浮べてゐた。

    それは放胆な露骨な話であつた。旧派の俳人の子で文学志望者の若い男のした話は、某婦人が奇怪な牛乳を用ひたために妊娠したといふ話であつた。その晩入会した美術家の一人が入会の挨拶に代へてした話は、その春歿くなつたといふ仲間の美術家の話であつた。その仲間といふのは、洋画家で可成の天才で、絵の評判も好く、容貌も悪い方でなかつたが、細君になる女が見付からなかつた。その見付からないにはすこし訳があつた。しかしそれは、ごく親い兄弟のやうにしてゐる友人でなければ判らないことであつた。こんなことで洋画家の細君を見付けてやらうとした友人達も、ちよつと手にあましてゐたところで、その内に大阪の方で女学校を卒業した女があつて、それが洋画家の足りないところを充たすことが出来さうだといふことになつた。で、骨を折つて結婚さしてみると、その目きゝはすこしも違はないで、傍の者を羨ますやうな仲の好い夫婦が出来た。美術家はその話の中に

    (それこそ、二人は相逢ふの遅きを怨むといふほどでしたよ、)といふ形容詞を用ひて皆を笑はした。

    哲郎も腹を抱へて笑つたことを思ひだした。美術家はそれから洋画家夫婦にすぐ子供の生れたことを話した。その生れた子供は、毎日のやうに女中の手に抱かれて、正午頃と夕方家の前へ出てゐた。子供はひイひイ泣いてゐる時があつた。通りかかつた知合の者が訊くと、

    (奥さんは、今、旦那さまとお書斎でお話をしてをりましてね、)

    などゝいつた。はじめにゐた一度結婚したことのある女中は、何故かすぐ逃げだしてしまつたといふことも思ひだした。彼の考へは頻に放縦な女の話へと往つた。彼は中学生相手の雑誌を編輯してゐる文学者の話した、某劇場の前にゐた二人の露西亜女の所へ往つて、葡萄酒を沢山飲まされて帰つて来たといふ話を思ひだした。と、発育しきつた外国婦人の肉体が白くほんのりと彼の眼の前に浮ぶやうに感じた。

    (銀座の某店の前で、ステツキを売つてゐる婆さんに、ステツキを買ふふりをして訊くと、女を世話してくれる、)

    何時も話題を多く持つてゐる若い新聞記者の話したことが浮んで来た。そこで彼は、そのステツキを売つてゐるといふ老婆に興味を感じて、某処に頭をやつたとこで、時間のことが気になつて来た。彼はカツプに手をやつたなりに顔をあげた。

    時計は十二時に十五分しかなかつた。彼は自分の物足りなさを充たしてくれる物は、上野の広小路あたりにあるやうな気がした。彼はすぐ広小路まで帰らうと思つた。さう思ふとゝもに、彼の頭の一方に雨の日の上野駅の印象が浮んだ。その印象の中には赤い柿の実が交つてゐた。彼はその印象をちらちらさしながら勘定のことを考へた。

    「おい、勘定、」

    カツプにすこし残つてゐたソーダ水を割つたウイスキーを口にしながら上野駅の印象の続きを浮べてみた。雨に暮れかけた上野駅では東北の温水町から一緒に帰つて来た六七人の者がばらばらになつて帰りかけた時、随筆家として世間に知られてゐる親い友人から呼び止められた。随筆家の友人は、土産にと持つて来た柿の籠を一緒に持つて往つて置いてくれといつた。

    (おい、けしからんことをいふなよ、)

    といつて笑つたことを思ひだした。随筆家の友人と話題を多く持つてゐる若い新聞記者とは、糠雨のちらちら降る中を外の方へと歩いていつた姿も浮んで来た。その二人は前晩泊つた温泉町から電報を打つて停車場もよりの家へ某事を頼んであるので、その家へ往つて夜を明かし、自分の家へは翌朝の汽車で帰つたやうな顔をして帰るといふことになつてゐた。彼は二人を見送つてから車を雇ひ、随筆家の友人の柿も一緒に積んで大塚の家へ帰つたことを思ひ出した。

    其処へ十八九に見える姿の好い女給が勘定書を持つて来た。彼はインバの衣兜から蟇口を出してその金を払ふとゝもにすぐ腰をあげた。

    哲郎は電車に揺られてうつとりとなりながら女のことを考へてゐた。その女の中には彼の洋画家の細君であるといふ女の、想像になつた長い骨を青白くゝるんだ肉体も浮んでゐた。

    一二年前に横浜の怪しい家で知つた獨逸人の混血児といふ女の肥つた肉体もその中に交つてゐた。それ等の女の肉体は電車の動くたびに動くやうな気がした。

    客のすくない電車の中は、放縦なとりとめもないことを考へるには都合がよかつた。彼の頭の中には細つそりした小女の手首の色も浮んで来た。

    「……黒門町、」

    哲郎は夢から覚めたやうに眼を開けて先づ自分といふ物に注意してから、今度は車の前の方へ眼をやつた。さうして彼は次に来る広小路を乗りすごさないやうにと思つた。

    ちよと車体に動揺を感じて、それがなくなつたところですぐ停つてしまつた。電車はもう広小路へ来てゐた。哲郎はすぐ起つておりた。他にも二人の客がその後からおりて来たが、物の影の走るやうに彼の傍を通り抜けて電車の前を横切り、大塚早稲田方面の電車の停まる呉服店の角の方へと走つて往つた。

    哲郎は薄暗い中に立つてゐた。風のない空気の緩んだ街頭はひつそりとして、物音といつては今彼を乗せて来た電車が交叉点を越へて上野の方へと走つてゐる音だけであるが、それさへ夢の国から来る物音のやうに耳には響かなかつた。四辻の向ふ角になつたカフエーのガラス戸が開いて、二三人の人影が中からによこによこと出て来たが其処にもなんの物音もしなかつた。哲郎はその物音のしないのが物足りなかつたが、しかし広小路へ来たといふ満足が彼の気持ちを傷つけなかつた。彼はとにかく向ふへ往かうと思つて、カフエーの方へと歩いた。

    厩橋の方から来たらしい電車がやはりなんの音もさせないでやつて来るのが見えた。哲郎はゆつくりとレールの上を踏んで歩いた。と、後から来て彼の左側をすれすれに通つて向ふへ往かうとする者があつた。それは若い小柄な女であつた。女は振り返るやうにちよと白い顔を見せた。女は長い襟巻をしてゐた。

    彼はすぐこの女はどうした女であらうと思つた。かうして十二時を過ぎてゐるのに一人で歩いてゐるところを見ると、決して正しい生活の女でないと思つた。さう思ふとともに彼は探してゐた物をあてたやうな気がした。

    「もし、もし、」

    彼は何か女にいつてみやうと思つた。と、女はまた白い顔をちらと見せた。

    「路が判らなくて困つてるんですが、」

    女の口元が笑ふやうになつて見えた。彼は安心して女の方へ寄らうとした。と、女の体はひらひらと蝶の飛ぶやうに向うへと往つて、もうカフエーの前を越えてゐた。彼は失望した。失望するとともに彼の女はある種の女でないと思つた。

    向ふから鳥打を冠りインバを着た男がやつて来た。哲郎はこの男は刑事かなにかではないかと思つた。彼はさうして今女に話しかけやうとしたことを思ひ出して、もしあんな時に追つかけでもしてゐやうものなら、ひどい目に逢はされたかも判らないと思つた。彼はすこし気が咎めたが、しかし向ふの方に幸福が待つてゐるやうな気がするので、引つかへさうとする気もしなければ、其処のカフエーへ入らうとする気も起らなかつた。

    夜店の後の街路には蜜柑の皮やバナナの皮が散らばつてゐた。哲郎は其処を歩きながら今の女は何処へ往つたらうと思つて、向ふの方を見た。向ふには薄暗い闇があるばかりで人影は見えなかつた。彼は女は何処かこのあたりの者であらうと思つた。

    哲郎は戸の閉つた薔麦屋の[#「薔麦屋の」はママ]前へ来てゐた。微に優しい声で笑ふのが聞えた。彼はその方へと顔をやつた。若い女が電柱に身を隠すやうにして笑つてゐた。それは長い襟巻で口元を覆ふやうにした彼の女であつた。

    「あ、」

    哲郎はもう何も考へる必要はなかつた。彼は女の傍へと往つた。

    「私は電車に乗つて帰るのが惜いやうな気がするもんだから、かうしてぶらぶらと歩いてるんです、どうです、一緒に散歩しませんか、すこし遅いことは遅いが、」

    女は電柱を離れて寄つて来た。黒い眼と地蔵眉になつた眉とがきれいであつた。

    「あなたは、どちらです、遠いんですか、」

    「近いんですよ、」

    「どうです、散歩しませんか、どつか暖い物をたべる家でも好いんですが、」

    「さうね、でも、もう遅いから、私の家へまゐりませう、」

    「往つても好い、構はないんですか、」

    「私、一人ですから好いんですよ、」

    「下宿でもしてゐるんですか、」

    「間借をしてゐるんですよ、二階の、屋根裏の穢い所よ、」

    「結構ですな、」

    もう女は歩きだした。哲郎は何かたべ物でも買つて往きたいと思ひだしたが、さて何を買つて好いやら、この夜更けに何があるものやらちよと思ひだせなかつた。

    「何か買つて往きませうか、たべる物でも、」

    女は顔を此方に向けた。

    「もう何も売つてやしませんわ、好いでせう、家へ往きや何かつまらん物がありますから、」

    「さうですか、」

    哲郎は怪しい女の生活を思ひ出してキユーラソー位はあるだらうと思つた。彼はもう何もいはずに女に随いて歩いた。

    女は其処の横町を左へ曲つた。向ふから待合の帰りらしい二人の若い男が来たが、その二人の眼は哲郎の方へぢろぢろと注がれた。彼はきまりがわるかつた。

    「此方よ、」

    女の小さな声がした。女は狭い狭い路次を入つた。哲郎は暗い所で転ばないやうにと足許に注意しいしい往つた。左の方はトタン塀になつて、右側に二階建の長屋らしい家の入口が二つ三つ見えた。

    「黙つてついてゐらつしやい、」

    女は其処の入口の雨戸をそうと開けそれから格子戸を開けて入つた。哲郎も続いて入つたが、下の人に知れないやうにと咳もしなかつた。

    あがり口の右側に二階の梯子段が薄らと見えてゐた。哲郎は女に押あげられるやうにされてあがつて往つた。

    上には青白い灯の点いた六畳の室があつた。室の中には瀬戸物の火鉢があつて、それを中に二枚の蒲団が敷いてあつた。向ふの左隅には小さな机があつて、その上に秋海棠のやうな薄紅い草花の咲いた鉢を乗せてあるのが見えた。

    「穢い所よ、」

    女は後の障子を締めて入つて来た。哲郎は立つてインバのボタンをはづしてゐた。

    「お座りなさいましよ、」

    女は襟巻を机の上へ乗せて、その方を背にして一方の蒲団の上に坐つた。哲郎もインバを足許へ置いてから、女と向き合ふやうにその青い地に何か魚の絵を置いたメリンスの蒲団の上に坐つた。

    二人の手と手は火鉢の上で絡みあつた。

    哲郎は女の顔を見るのがまぶしかつた。

    「どうです、」

    哲郎は笑つた。彼はそれ以外にいふ詞がなかつた。

    女も笑つてゐた。女の眼は絡みあつてゐる哲郎の手元へと来た。

    「暖いわ、ね、」

    「会があつて今まで飲んでたから、暖かいでせう、」

    「お酒をおあがりになつて、」

    「すこし飲むんです、」

    「ぢや、お酒をあげませうか、」

    「ありますか、」

    哲郎は形式だけでも酒があると話がしよいと思つた。

    「すこしありますよ、私はいたゞかないから、貰つたのをそのまゝにしてありますよ、」

    女は顔をあげて右の鴨居の方を見た。其処には小さな棚があつて、ボール箱もあれば木箱も見えてゐた。

    「味はどうですか、草の色をした酒ですよ、」

    女はさういつて起たうとするので、哲郎は絡んでゐた指を解いた。と、女は起つて棚の黄ろなボール箱に手をやらうとしたが達かなかつた。

    「取らう、飲む者が取りませう、」

    哲郎は起つて女と並んだ時、爪立ちを止めた女の体がもつたりと凭れて来た。哲郎はその女の体を支へながらボール箱に手をやつた。と、今まで気が注かなかつた天井から垂れてゐる青いワナになつた紐がちらと眼に注くとゝもに、それがふはりと首に纏はつた。彼は左の手でそれを払のけやうとしたところで、凭れかゝつて来た女の体に石のやうな力が加はつて、彼の体を崩してしまつた。彼は唸り声を立てた。

    哲郎が意識を回復した時には、薄暗い枕頭に二人の男が立つてゐた。

    「お前さんは何んだね、此処へ何しに来たんだね、」

    哲郎は女に連れられて下の人に知らさずにそつと来てゐることに気が注いた。彼はかうなれば女に弁解して貰ふより他に手段がないと思つた。彼は起きて四辺を見たが女の姿は見えなかつた。

    「此処にゐる女の方と一緒に来たんですが、何処へ往つたんでせうか、」

    「此処にゐるつて、此処には何人もゐないが、何人にも貸してないから、」

    「おかしいな、私は其処の蕎麦屋の前で一緒になつて、やつて来て、棚に酒があるといつて、女が取らうとしたが棚が高くて取れないから、私が取つてやらうとすると、女が凭れかゝつて来る拍子に、其処の天井からさがつてる青い紐が首へかゝつて、それつきり知らなくなつたんですが、」

    哲郎は棚の方を見た。紐もなければ古い煤けた棚には何も見えなかつた。

    「判つた、よし、好い、まア、下へお出で、お前さんに話がある、」

    それは頬から頤にかけて胡麻塩髯の見える労働者のやうな男であつた。哲郎は意味が判らなかつたが、腑に落ちないことだらけであるから、とにかく精しいことを聞かうと思つて、傍にあるインバを持ち、先になつておりて往く二人の後から随いて往つた。

    胡麻塩の男は其処の亭主で、一人は隣家の男であつた。亭主は火のない長火鉢の傍で小さな声でいつた。

    「五六年前に、バーの女給をしてゐた女が、なんでも男のことかなんかで、あすこで死んださうですよ、私達は一昨年移つて来て何も見ないが、へんなことがあるといつて、貸す人も貸す人も三月とはゐないんですよ。」

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