アインシュタインの教育観

『アインシュタインの教育観』の解説

  • タイトルアインシュタインの教育観
  • 著作者寺田 寅彦
  • 書籍名寺田寅彦全集 第六巻
  • 出版社岩波書店
  • 出版年1997年5月6月
  • 制作年?
  • 製作国不明
  • 言語新字新仮名
  • 著作権状態パブリック・ドメイン
  • 初出「科学知識」1921(大正10)年7月
  • 『アインシュタインの教育観』の全文

    近頃パリに居る知人から、アレキサンダー・モスコフスキー著『アインシュタイン』という書物を送ってくれた。「停車場などで売っている俗書だが、退屈しのぎに……」と断ってよこしてくれたのである。

    欧米における昨今のアインシュタインの盛名は非常なもので、彼の名や「相対原理」という言葉などが色々な第二次的な意味の流行語になっているらしい。ロンドンからの便りでは、新聞や通俗雑誌くらいしか売っていない店先にも、ちゃんとアインシュタインの著書(英訳)だけは並べてあるそうである。新聞の漫画を見ていると、野良のむすこが親爺の金を誤魔化しておいて、これがレラチヴィティだなどと済ましているのがある。こうなってはさすがのアインシュタインも苦い顔をしている事であろう。

    我邦ではまだそれほどでもないが、それでも彼の名前は理学者以外の方面にも近頃だいぶ拡まって来たようである。そして彼の仕事の内容は分らないまでも、それが非常に重要なものであって、それを仕遂げた彼が非常な優れた頭脳の所有者である事を認め信じている人はかなりに多数である。そうして彼の仕事のみならず、彼の「人」について特別な興味を抱いていて、その面影を知りたがっている人もかなりに多い。そういう人々にとってこのモスコフスキーの著書は甚だ興味のあるものであろう。

    モスコフスキーとはどういう人か私は知らない。ある人の話ではジャーナリストらしい。自身の序文にもそうらしく見える事が書いてある。いずれにしても著述家として多少認められ、相当な学識もあり、科学に対してもかなりな理解を有っている人である事は、この書の内容からも了解する事が出来る。

    この人のアインシュタインに対する関係は、一見ボスウェルのジョンソン、ないしエッカーマンのゲーテに対するようなものかもしれない。彼自身も後者の類例をある程度まで承認している。「琥珀の中の蝿」などと自分で云っているが、単なるボスウェリズムでない事は明らかに認められる。

    時々アインシュタインに会って雑談をする機会があるので、その時々の談片を題目とし、それの注釈や祖述、あるいはそれに関する評論を書いたものが纏まった書物になったという体裁である。無論記事の全責任は記者すなわち著者にあることが特に断ってある。

    一体人の談話を聞いて正当にこれを伝えるという事は、それが精密な科学上の定理や方則でない限り、厳密に云えばほとんど不可能なほど困難な事である。たとえ言葉だけは精密に書き留めても、その時の顔の表情や声のニュアンスは全然失われてしまう。それだからある人の云った事を、その外形だけ正しく伝えることによって、話した本人を他人の前に陥れることも揚げることも勝手に出来る。これは無責任ないし悪意あるゴシップによって日常行われている現象である。

    それでこの書物の内容も結局はモスコフスキーのアインシュタイン観であって、それを私が伝えるのだから、更に一層アインシュタインから遠くなってしまう、甚だ心細い訳である。しかし結局「人」の真相も相対性のものかもしれないから、もしそうだとすると、この一篇の記事もやはり一つの「真」の相かもしれない。そうでない場合でも、何かしら考える事の種子くらいにはならない事はあるまい。

    余談はさておき、この書物の一章にアインシュタインの教育に関する意見を紹介論評したものがある。これは多くの人に色々な意味で色々な向きの興味があると思われるから、その中から若干の要点だけをここに紹介したいと思う。アインシュタイン自身の言葉として出ている部分はなるべく忠実に訳するつもりである。これに対する著者の論議はわざと大部分を省略するが、しかし彼の面目を伝える種類の記事は保存することにする。

    アインシュタインはヘルムホルツなどと反対で講義のうまい型の学者である。のみならず講義講演によって人に教えるという事に興味と熱心をもっているそうである。それで学生や学者に対してのみならず、一般人の知識慾を満足させる事を煩わしく思わない。例えば労働者の集団に対しても、分りやすい講演をやって聞かせるとある。そんな風であるから、ともかくも彼が教育という事に無関心な仙人肌でない事は想像される。

    アインシュタインの考えでは、若い人の自然現象に関する洞察の眼を開けるという事が最も大切な事であるから、従って実科教育を十分に与えるために、古典的な語学のみならず「遠慮なく云えば」語学の教育などは幾分犠牲にしても惜しくないという考えらしい。これについて持出された So viele Sprachen einer versteht, so viele Male ist er Mensch. というカール五世の言葉に対して彼は、「語学競技者」は必ずしも「人間」の先頭に立つものではない、強い性格者であり認識の促進者たるべき人の多面性は語学知識の広い事ではなくて、むしろそんなものの記憶のために偏頗に頭脳を使わないで、頭の中を開放しておく事にある、と云っている。

    「人間は『鋭敏に反応する』(subtil zu reagieren)ように教育されなければならない。云わば『精神的の筋肉』(geistige Muskeln)を得てこれを養成しなければならない。それがためには語学の訓練はあまり適しない。それよりは自分で物を考えるような修練に重きを置いた一般的教育が有効である。」

    「尤も生徒の個性的傾向は無論考えなければならない。通例そのような傾向は、かなりに早くから現われるものである。それだから自分の案では、中等学校の三年頃からそれぞれの方面に分派させるがいいと思う。その前に教える事は極めて基礎的なところだけを、偏しない骨の折れない程度に止めた方がいい。それでもし生徒が文学的の傾向があるなら、それにはラテン、グリーキも十分にやらせて、その代り性に合わない学科でいじめるのは止した方がいい……」

    これは明らかに数学などを指したものである。数学嫌いの生徒は日本に限らないと見えて、モスコフスキーの云うところに拠ると、かなりはしっこい頭でありながら、数学にかけてはまるで低能で、学校生活中に襲われた数学の悪夢に生涯取り付かれてうなされる人が多いらしい。このいわゆる数学的低能者についてアインシュタインは次のような事を云っている。

    「数学嫌いの原因が果して生徒の無能にのみよるかどうだか私にはよく分らない。むしろ私は多くの場合にその責任が教師の無能にあるような気がする。大概の教師はいろんな下らない問題を生徒にしかけて時間を空費している。生徒が知らない事を無理に聞いている。本当の疑問のしかけ方は、相手が知っているか、あるいは知り得る事を聞き出す事でなければならない。それで、こういう罪過の行われるところでは大概教師の方が主な咎を蒙らなければならない。学級の出来栄えは教師の能力の尺度になる。一体学級の出来栄えには自ずから一定の平均値があってその上下に若干の出入りがある。その平均が得られれば、それでかなり結構な訳である。しかしもしある学級の進歩が平均以下であるという場合には、悪い学年だというより、むしろ先生が悪いと云った方がいい。大抵の場合に教師は必要な事項はよく理解もし、また教材として自由にこなすだけの力はある。しかしそれを面白くする力がない。これがほとんどいつでも禍の源になるのである。先生が退屈の呼吸を吹きかけた日には生徒は窒息してしまう。教える能力というのは面白く教える事である。どんな抽象的な教材でも、それが生徒の心の琴線に共鳴を起させるようにし、好奇心をいつも活かしておかねばならない。」

    これは多数の人にとって耳の痛い話である。

    この理想が実現せられるとして、教案を立てる際に材料と分布をどうするかという問に対しては、具体的の話は後日に譲ると云って、話頭を試験制度の問題に転じている。

    「要は時間の経済にある。それには無駄な生徒いじめの訓練的な事は一切廃するがいい。今日でも一切の練習の最後の目的は卒業試験にあるような事になっている。この試験を廃しなければいけない。」「それは修学期の最後における恐ろしい比武競技のように、遥かの手前までもその暗影を投げる。生徒も先生も不断にこの強制的に定められた晴れの日の準備にあくせくしていなければならない。またその試験というのが人工的に無闇に程度を高く捻じり上げたもので、それに手の届くように鞭撻された受験者はやっと数時間だけは持ちこたえていても、後ではすっかり忘れて再び取りかえす事はない。それを忘れてしまえば厄介な記憶の訓練の効果は消えてしまう。試験さえすめば数カ月後には大丈夫綺麗に忘れてしまうような、また忘れて然るべきような事を、何年もかかって詰め込む必要はない。吾々は自然に帰るがいい。そして最小の仕事を費やして最大の効果を得るという原則に従った方がいい。卒業試験は正にこの原則に反するものである。」

    それでは大学入学の資格はどうしてきめるかとの問に対して、

    「偶然に支配されるような火の試練でなく、一体の成績によればいい。これは教師にはよく分るもので、もし分らなければ罪はやはり教師にある。教案が生徒を圧迫する度が少なければ少ないほど、生徒は卒業の資格を得やすいだろう。一日六時間、そのうち四時間は学校、二時間は宅で練習すれば沢山で、それすら最大限である。もしこれで少な過ぎると思うなら、まあ考えてみるがいい。若いものは暇な時間でも強い興奮努力を経験している。何故と云えば、彼等は全世界を知覚し認識し呑み込まなければならないから。」

    「時間を減らして、その代りあまり必須でない科目を削るがいい。『世界歴史』と称するものなどがそれである。これは通例乾燥無味な表に詰め込んだだらしのないものである。これなどは思い切って切り詰め、年代いじりなどは抜きにして綱領だけに止めたい。特に古い時代の歴史などはずいぶん抜かしてしまっても吾人の生活に大した影響はない。私は学生がアレキサンダー大王その外何ダースかの征服者の事を少しも知らなくても、大した不幸だとは思わない。こういう人物が残した古文書的の遺産は、無駄なバラストとして記憶の重荷になるばかりである。どうしても古代に溯りたいなら、せめてサイラスやアルタセルキセスなどは節約して、文化に貢献したアルキメーデス、プトレモイス、ヘロン、アポロニウスの事でも少し話してもらいたい。全課程を冒険者や流血者の行列にしないために発明家や発見家も入れてもらいたい。」

    歴史の時間の一部を割いて、実際の国家組織に関する事項、社会学や法律なども授けてはどうかという問に対してはむしろ不賛成だと答えている。彼自身個人としては公生活の組織に関してかなりな興味をもっているが、学校で政治的素養を作る事は面白くないと云っている。その理由は第一こういう教育は官辺の影響のために本質的に出来にくいし、また頭の成熟しないものが政治上の事にたずさわるのは一体早過ぎるというのである。その代り生徒に何かしら実用になる手工を必修させ、指物なり製本なり錠前なりとにかく物になるだけに仕込んでやりたいという考えである。これに対してモスコフスキーが、一体それは腕を仕込むのが主意か、それとも民衆一般との社会的連帯の感じを持たせるためかと聞くと、

    「両方とも私には重要に思われる。その上に私のこの希望を正当と思わせるもう一つの見地がある。手工は勿論高等教育を受けるための下地にはならないでも、人間(sittliche Persnlichkeit)として立つべき地盤を拡げ堅めるために役に立つ。普通学校で第一に仕立てるべきものは未来の官吏、学者、教員、著述家でなくて「人」である。ただの「脳」ではない。プロメトイスが最初に人間に教えたのは天文学ではなくて火であり、工作であった……」

    これに和してモスコフスキーは、同時に立派な鍛冶でブリキ職でそして靴屋であった昔の名歌手を引合いに出して、畢竟は科学も自由芸術の一つであると云っている。しかしアインシュタインが、科学それ自身は実用とは無関係なものだと言明しながら、手工の必修を主張して実用を尊重するのが妙だと云うのに答えて次のような事を云っている。

    「私が実用に無関係と云ったのは、純粋な研究の窮極目的についてである。その目的はただ極めて少数の人にのみ認め得られるものである。それでせいぜい科学の準備くらいのところまでこの考えを持って行くのは見当違いである。むしろ反対に私は学校で教える理科は今日やっているよりずっと実用的に出来ると思う。今のはあまりに非実際的過ぎる。例えば数学の教え方でも、もっと実用的興味のあるように、もっとじかに握まれるように、もっと眼に見えるようにやるべきのを、そうしないから失敗しがちである。子供の頭に考え浮べ得られる事を授けないでその代りに六かしい「定義」などをあてがう。具体的から抽象的に移る道を明けてやらないで、いきなり純粋な抽象的観念の理解を強いるのは無理である。それよりもこうすればうまく行ける。先ず一番の基礎的な事柄は教場でやらないで戸外で授ける方がいい。例えばある牧場の面積を測る事、他所のと比較する事などを示す。寺塔を指してその高さ、その影の長さ、太陽の高度に注意を促す。こうすれば、言葉と白墨の線とによって、大きさや角度や三角函数などの概念を注ぎ込むよりも遥かに早く確実に、おまけに面白くこれらの数学的関係を呑み込ませる事が出来る。一体こういう学問の実際の起原はそういう実用問題であったではないか。例えばタレースは始めて金字塔の高さを測るために、塔の影の終点の辺へ小さな棒を一本立てた。それで子供にステッキを持たせて遊戯のような実験をやらせれば、よくよく子供の頭が釘付けでない限り、問題はひとりでに解けて行く。塔に攀じ上らないでその高さを測り得たという事は子供心に嬉しかろう。その喜びの中には相似三角形に関する測量的認識の歓喜が籠っている。」

    「物理学の初歩としては、実験的なもの、眼に見えて面白い事の外は授けてはいけない。一回の見事な実験はそれだけでもう頭の蒸餾瓶の中で出来た公式の二十くらいよりはもっと有益な場合が多い。やっと現象の世界に眼のあきかけた若いものの頭に公式などは一切容赦してやらねばいけない。公式は、丁度世界歴史の年代の数字と同様に、彼等の物理学の中に潜む気味の悪い怖ろしい幽霊である。よく訳のわかった巧者な実験家の教師が得られるならば中頃の学級からやり始めていい。そうしてもラテン文法の練習などではめったに出逢わないような印象と理解を期待する事が出来るだろう。」

    「ついでながら近頃やっと試験的に学校で行われ出した教授の手段で、もっと拡張を奨励したいのがある。それは教育用の活動フィルムである。活動写真の勝利の進軍は教育の縄張りにも踏み込んでくる。そしてそこで始めて、多数の公開観覧所が卑猥なものやあくどい際物で堕落し切っているのに対して、道徳的なものをもって対抗させる機会を得るだろう。教授用フィルムに簡単な幻燈でも併用すれば、従来はただ言葉の記載で長たらしくやっている地理学などの教授は、世界漫遊の生きた体験にも似た活気をもって充たされるだろう。そして地図上のただの線でも、そこの実景を眼の当りに経験すれば、それまでとはまるで違ったものに見えて来る。また特にフィルムの繰り出し方を早めあるいは緩めて見せる事によって色々の知識を授ける事が出来る。例えば植物の生長の模様、動物の心臓の鼓動、昆虫の羽の運動の仕方などがそうである。それよりも一層重要だと思うのは、万人の知っているべきはずの主要な工業経営の状況をフィルムで紹介する事である。動力工場の成り立ち、機関車、新聞紙、書籍、色刷挿画はどうして作られるか、発電所、ガラス工場、ガス製造所にはどんなものがあるか。こんな事はわずかの時間で印象深く観せる事が出来る。更に自然科学の方面で、普通の学校などでは到底やって見せられないような困難な実験でも、フィルムならば容易に、しかも実際と同じくらい明瞭に示すことが出来る。要するに教育事業を救うの道はただ一語で「もっと眼に浮ぶようにする」(die erhhte Anschaulichkeit)という事である。出来る限りは知識(Erlernen)が体験が(Erleben)にならねばならない。この根本方針は未来の学校改革に徹底させるべきものである。」

    大学あたりの高等教育についてはあまり立入った話はしなかったそうである。しかしアインシュタインは就学の自由を極端まで主張する方で、聴講資格のせせこましい制定を撤廃したいという意見らしい。演習なり実習なりである講義を理解する下地の出来たものは自由に入れてやって、普通学の素養などは強要しない。ことに彼の経験では有為な徹底的な人間は往々一方に偏する傾向があるというのである。従って中等学校では生徒がある特殊な専門に入るだけの素養が出来次第その学科に対するだけの免状をやる事にすればいい。前に中学卒業試験全廃を唱えたのは、つまりこうして高等教育の関門を打破する意味と思われる。尤も彼も全然あらゆる能力験定をやめるというのではない。医科学生になるための予備試験などは止めた方がいいが、しかし将来教師になろうという人で、見込のないようなのは早く験出してやめさせる方がいいと云っている。これは生徒に寛で教師に厳な彼としてさもあるべきことだと著者が評している。

    ここで著者はしばらくアインシュタインをはなれて、これらの問題に対するこの理学者の権威の如何について論じている。理論物理のような常識に遠い六かしい事を講義して、そして聴衆を酔わせ得るのは、彼自身の内部に燃える熱烈なものが流れ出るためだと云っている。彼の講義には他の抽象学者に稀に見られる二つの要素、情調と愛嬌が籠っている、とこの著者は云っている。講義のあとで質問者が押しかけてきても、厭な顔をしないで楽しそうに教えているそうである。彼の聴講者は千二百人というレコード破りの多数に達した。彼の講義室は聞くまでもなくすぐ分る。みんなの行く方へついて行けばいい、と云われるくらいだそうである。この人気に対して一種の不安の色が彼の眉目の間に読まれる。のみならず「はやりものだな」という言葉が彼の口から洩れた。しかしこれは悪く取ってはいけない、無理のないところもあると著者が弁護している。

    それから古典教育に関する著者の長い議論があるが、日本人たる吾々には興味が薄いから略する事にして、次に女子教育問題に移る。

    婦人の修学はかなりまで自由にやらせる事に異議はないようだが、しかしあまり主唱し奨励する方でもないらしい。

    「他の学科と同様に科学の方も、なるべく道をあけてやらねばなるまい。しかしその効果については多少の疑いを抱いている。私の考えでは婦人というものに天賦のある障害があって、男子と同じ期待の尺度を当てる訳にはいかないと思う。」

    キュリー夫人などが居るではないかという抗議に対しては、

    「そういう立派な除外例はまだ外にもあろうが、それかといって性的に自ずから定まっている標準は動かされない。」

    モスコフスキーは四十年前の婦人と今の婦人との著しい相違を考えると、知識の普及に従って追々は婦人の天才も輩出するようになりはしないか、と云うと、

    「貴方は予言が御好きのようだが、しかしその期待は少し根拠が薄弱だと思う。単に素養が増し智能が増すという『量的』の前提から、天才が増すというような『質的』の向上を結論するのは少し無理ではないか。」こう云った時にアインシュタインの顔が稲妻のようにちょっとひきつったので、何か皮肉が出るなと思っていると、果して「自然が脳味噌のない『性』を創造したという事も存外無いとは限らない」と云った。これは無論笑談であるが彼の真意は男女の特長の差異を認めるにあるらしい。モスコフスキーはこれを敷衍して「婦人は微分学を創成する事は出来なかったが、ライプニッツを創造した。純粋理性批判は産めないが、カントを産む事が出来る」と云っている。

    話頭は転じて、いわゆる「天才教育」の問題にはいる。特別の天賦あるものを選んで特別に教育するという事は、原理としては多数の承認するところで問題は程度如何にある。これは元来ダーウィンの自然淘汰説に縁をひいていて、自然の選択を人工的に助長するにある。尤もこの考えはオリンピアの昔から、あらゆる試験制度に通じて現われているので、それ自身別に新しいことではないが、問題は制度の力で積極的にどこまで進めるかにある、と著者は云っている。これに対するアインシュタインの考えは試験嫌いの彼に相当したものである。「競技かなんぞのようにやる天才養成」(quasisportmssig gehandhabte Begabetenzchtung)はいけないと云っている。結果はいかものか失敗かである。しかしこの選択も適度にやれば好結果を得られない事はあるまい。これまでの経験ではまだ具体的な案は得られないが、適当にやれば、従来なら日影でいじけてしまうような天才を日向へ出して発達させる事も出来ようというのである。

    著者はこれにつづいて、天才を見付ける事の困難を論じ、また補助奨励と天才出現とは必ずしも並行しない事などを実例について論じている。そして一体天才の出現を無制限に望むのがいいか悪いかという根本問題に触れたところで、アインシュタインの独特な社会観をほのめかしている。しかしこれらの点の紹介は他の機会に譲ることにしたい。

    (大正十年七月『科学知識』)

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