あひびき

『あひびき』の解説

  • タイトルあひびき
  • 著作者林 芙美子
  • 書籍名林芙美子全集 第六巻
  • 出版社文泉堂出版
  • 出版年1977年4月20月
  • 制作年?
  • 製作国不明
  • 言語旧字旧仮名
  • 著作権状態パブリック・ドメイン
  • 初出「別冊文藝春秋」1946(昭和21)年12月
  • 『あひびき』の全文

    火の氣がないので、私は鷄介と二人で寢床にはいつてゐた。朝から喋つてゐたので、寢床へはいると喋ることもなく、私は、あをむけになつて、眼の上に兩手をそろへて眺めてゐた。鷄介も兩の手を出した。私は鷄介の大きい掌に自分の手を合はせてみた。「冷い?」鷄介は默つて私の手を大きい掌で包みこむやうに握つた。朝から雨が降つてゐるので、私は落ちついてしまつた。何もする氣がしなかつた。草におく露のやうに、きらきらと光つてゐる男の心が無性に私の心をはずませた。二人はお互ひの指と指をからませあつて、のびのびと體をのばして天井を見てゐた。硝子窓に、横なぐりの雨が吹きつけてゐる。樋をつたふ雨のこぼつ、こぼつと、石穴にでも溢れてゐるやうな音がして、空は黄灰色に薄昏く、水氣がこもつてゐた。晴れた日は、窓の向うに富士山が見えると女中が云つてゐたけれども、昨夜、この宿へ着くなり雨で、富士山は見えなかつた。――戰爭の頃は、此宿は寮にでもなつてゐたらしく、荒れ放題に荒れた部屋の中で、疊も汚れ、蒲團も重い。二人出鱈目に甲府まで來てしまつた。そして、出鱈目に湯の宿を探して泊つた旅館だけれども、結局は二人にとつては、そんな、むさくるしい部屋も氣にはかゝらなかつた。――私は鷄介の子供を宿してゐた。私は珊瑚色の寢卷きを着てゐた。身幅を廣く縫つた寢卷きを着てゐるので、みごもつてゐる女のみにくさは案外めだたないでゐる。鷄介は思ひ出したやうに、時々、私のおなかに耳をあてて、胎内の子の息を聽いた。鷄介にはおくさんがあつた。私にも良人があつた。そして、戰爭は濟んでゐるのに、私たちの重たい環境は、この戰爭とは何のかゝはりもなく崩れてはゐなかつた。ただ何ヶ月か先には、私は、子供を産む支度をしなければならない。

    朝も晝も、食事らしい食事をしないのだけれども、私たちは別に腹の空いた感じもなかつた。少しの間でも、二人は寄り添つて、忽諸してゆく運命に耐へてゆきたかつた。二人でしつかりつかまりあつてゐたい氣持ちだつた。光澤のある、二人の正直な心を、この一瞬だけでも、神樣は哀れんで下さるだらうと、私はさう思つた。あひびきにつきものの、暗い不安は突きのけて、私は、安心して明るい氣持ちでゐられた。二人は、時々冗談を云つて笑つた。判斷をするやうないとまなぞはなかつた。拔目なく、このおもひをつらぬかうなぞと云つた願ひもなかつた。牢屋にゐても、心でだけ、愉しいと思ふ時はあるに違ひないと言つたやうな、そんな妙な靜けさでもゐる。谷間のなかに轉落しても、私たちは笑ひあつてゐられるやうな、暖かい滿足感があつた。このやうな二人の間と云ふものは、不幸な終末が來ない筈はないと信じて、その不幸の來る事にくよくよとするやうな、お互ひの年齡でないことが、私の氣持ちを落ちつかせてもゐたのであらう。觸れる。幸福だと思ふ。それでよいのだと思つた。これ以上の何を求める理由があるだらう。二人がこのやうになつたものを、いまさら、どんな理窟がつけられるだらうか……。

    無秩序のやうでゐて、二人の間には、規則正しい秩序があつた。二人の氣の弱さから來る秩序正しさで、少しも自慢にはならないことだけれども、私たちは、甘い奇蹟を信じようなぞとは少しも思はなかつた。身を沈めてこそ浮ぶ瀬もあれ、といふことを、深く心に銘じてゐたから……。

    不徳、不貞、詐欺漢、世間から云へば、このやうなつぶても投げられるであらう。けれど、二人は、おだやかに寄り添つて、何時も、おだやかに微笑してゐられた。過ちではないからだ。過ちと云へば、むしろ、七年間の結婚生活の方が、私には過ちのやうに思へた。この思ひを審判してくれるものは、風や、空氣より外にはない。

    私は、鷄介と結婚をしようとは思はない。別れる時が來れば、それも仕方のない事だけれども……。二人は、無慙な別れかたをしないだらうと云ふ自信があつた。只子供だけはすくすくとそだてて、物心ついて、行きたい方へ行かせてやりたいと思つた。私は若い女のやうにいろいろな迂路には惱まなかつた。たゞ鷄介を愛してゐる。それだけでいつぱいであつた。二人は何時でも逢ひたい時に逢へたけれども、時には二ヶ月位も知らない顏でゐたりした。長い事逢はなくても、呼びあへばすぐ逢ふ事の出來る信頼があつた。二人には、過去の幽靈がとりついてゐると云ふ昏さがなかつた。玩具いぢりのやうな、言葉だけの戲れなぞは二人には出來なかつた。お互ひの生活をうかゞひあつてゐるやうな事も云へなかつた。鷄介は煙草をよく吸つた。煙草を吸はない私は、いつもマッチだけは持つて歩いた。それだけが、鷄介を思ひ出すよすがであつた。臺所をしてゐて、私はマッチをつける。その炎をしばらく見つめてゐる。軌道をくるくるとまはつて來る金星の光りのやうな、もの柔い愛情がうつぼつとして湧きあがつて來る。その記憶の炎のなかに、いつも鷄介はぬくぬくとをさまつてゐた。人の心の窮極は、丁度、天體の外觀のやうに、誰もが見きはめてゐるかのやうな錯覺を持つてゐるけれども、まだ、云ひ足りない、調べ足りない、神祕な空洞がいくつもあるやうな氣がして、私は出世の道徳を信じないのだ。冒頭はあるけれど、終結は流星の尾のやうに、すうつと暗鬼の世界へ消えて行つてしまふ人間の知識を信じない。

    「何時頃だらう?」

    鷄介が握りあつてゐる私の手を、私の胸に並べるやうに置いて、腹這ひになつて、枕元の腕時計を引き寄せた。

    「あんまり食べないのもをかしいね」

    「何時?」

    「三時だ」

    「どうすればいゝ?」

    「一寸、町を探檢して來よう。あつたら何か買つて來る」

    鷄介は起きて服に着替へた。天井に背のとゞきさうな高さでをかしくなる。廊下へ出て行つたけれど、財布を忘れたと云つて、すぐまた戻つて來た。

    「馬鹿ね」

    「うん。君のせゐだ……」

    「財布を落さないでね」

    「うん、大丈夫だよ」

    鷄介は出て行つた。

    鷄介は外科醫で、私は患者だつたと云ふつながりで、二人の共通の友人が一人もないと云ふ事が淋しかつたけれども、いまではかへつて、共通の知人がないと云ふ事がしあはせでさへあつた。博士號もない、目立たない町醫者だつたけれども、鷄介はあくせくとして、名譽を掴まうと云ふ野心のない男であつた。外觀なぞはとりつくろはない、坦々とした氣性で、これまでにも、幾人かの女に愛されてゐた。九州醫大を出て、少しばかりの間、シンガポールに行つてゐたと云ふ事を私は聞いた。

    だけど、私は、鷄介の過去なぞはどうでもよかつた。自然に鷄介を好きになつたのだ。始めは亂暴な口を利く男だと思つた。その亂暴さに私は腹を立てた。その爲に、私はかへつて鷄介をしづかに觀察するやうになつた。仕事が丁寧で、思ひやりのあるくせに、お粗末な口の利きかたをした。妙な事に、私は、二日もつゞけて鷄介の夢を見た。

    まだ行つた事もない異國の山のホテル、霧のまいてゐるやうな山深いホテルの一室で、ランプの燈を頼りに食事をしあつてゐる。私の隣りに鷄介がゐて、前には軍人が二人ばかり食事をしてゐた。その次の夜は、鷄介の部屋を求めて、そつと扉を開けてはいるなり、鷄介が「誰だッ」と聲立てて怒鳴つた。そんな他愛ない夢だつたけれども、その夢のなごりは長い間、私を苦しめた。現實に逢へば鷄介は毒舌家であつた。鷄介は私より三つ年下の三十四で働き盛りである。戰爭中は、青山で開業してゐたのだけれど、空襲で家が燒けると、家族を姫路の郷里に疎開させて、自分だけ東京に殘り、M區のS病院の外科室に勤めてゐた。あなたのクロロホルムは效目があつたのねと、私はよく冗談を云つたものだけども、毒舌家の鷄介が、その時ばかりは流石に赧い顏をして微笑してゐた。

    二人がいつしよになつてから、過去の經驗と云ふものは、案外無力なものだと云ふ事が判り、二人だけが、空氣の中から、突然生れあはせてでも來たやうなよろこびやうを感じあつた。アダムとイヴの謎は、この戀のこゝろを表現したものではないかと私は思つた。昔、父の書齋で、私はヴィナスを抱くレダのなまめかしい樣子を見て、暫く心が波打つてゐた記憶があるけれども、どうかすると、鷄介の手がレダの羽根のやうに思へてうつとりとする時がある。情熱とは海のやうに、たつぷりと水をたゝへてゐる姿だ。

    良人は、私のこゝろを見拔いてゐた。何も云はないけれども、行動で知つてゐると云ふ氣配をはつきり示してゐた。たゞ、相手が何者かと云ふ事は聞かなかつた。私は、鷄介のことを云ふのは厭であつた。良人は年を取つてゐたし、二十年の銀行員で、規則正しい勤めぶりであつた。戰後、一億の財産を持つてゐる人間が、東京に一人、大阪に三人あると云ふ話や、第三國人で、一人で六十億持つてゐる人間が銀行をつくりたいと問ひあはせて來た話なぞをしてゐた。新圓の封鎖は、二囘にも三囘にもやらなければ、このインフレーションは囘復しないと云ふ話や預金の景品つきと云ふ計畫は、政府に信用のなくなつた證明をしてゐるやうなものだと憤つたりしてゐる。

    期待の多い、野心のある生活と云ふものは、良人の性格には縁のないことで、私は良人の日常を銅像のやうだと思つてゐた。

    三十分もして、鷄介は、卵やソーセージや、コッペパンを買つて來た。洋服の裾がびつしより濡れてゐる。私は卵を見ると吐氣がした。額に手をやると何となく熱がある。鷄介は、オイベスチンの桃色の粒を掌にあけて私の唇へ持つて來た。

    「顏が蒼いね」

    「さう、むくんでゐるみたいなのよ」

    ぬるい茶を貰つて鷄介はまづさうにコッペパンを噛つてゐる。その食べる樣子を見てゐると、つくづく、淪落してゆく二人の身の落ちぶれを、夕映のやうに感じてかへつて初々しくさへあつた。

    私は起きて鏡臺の前に坐つた。

    ずんぐりとした胴まはりが不細工に見える。下腹が急に重たく沈んでゆくやうで、兩脚の筋肉が吊れて、暫く動く事が出來なくなつた。

    「どうした?」

    「脚の筋が痛いの」

    「急に起きたからだらう……」

    「罰があたつたのかしら?」

    私は冗談を云つた。あまり痛いので、急に笑ひたくなつた。鷄介はうつむいて默つた。

    「早晩、やつぱり、手術をした方がいゝね」

    手術と云ふのは、二人で完全に一緒に住むと云ふことであつた。私は涙が溢れた。見たこともない鷄介の妻が不憫になつてきて、急に頭の芯が痛み始める。

    「その時になつてみなければ判らないわ。その時になれば、何とか道も展けて來るでせう。たゞ一緒になる事をひそかに計畫するつてことは、お互ひの家庭に對して不純な事だと思ふのよ。なりゆきに任せる、これより道はないと思ふの。うまく解決する事なんか考へるよりも私早く子供を産んでしまひたいのよ。子供が産れるまでの苦勞の方が、私には、どんな解決よりも辛いのよ。手術なんか、どうでもいゝの……」

    「家で産めないとなると、どうするンだ?」

    「知らない町へ行つて産むのよ。私、一軒探しておいた産院があるの」

    一ヶ月程前、やつぱりかうして、みぞれまじりの雨のなかを、私は新聞廣告を頼つて、雜司ヶ谷の小さい産院をたづねて行つた。賑やかな産婆は、何も彼も心得た風に私を遇して、安心して來るやうにと云つた。何處かへくれてやるつもりなら、貰ひ手もあるのだから、安心していらつしやいと云つてくれた。私は、赤ん坊を人にくれる氣持ちは少しもなかつた。たゞ、當分の間、親切な人があれば里子に出してもいゝと思つてゐる。――暫く、薄暗い部屋に坐つてゐると、子供を貰ひたいと云ふ夫婦者がはいつて來た。この家は、如何にも女の働いてゐる家らしく、掃除もゆきとゞかない汚れて散らかつた部屋で、太つた産婆は、煙草をぷかぷか吸つてゐた。約束してあつたと見えて、二階から、若い、まだ少女のやうな女が、赤い麻の葉模樣の産衣にくるまつた赤ん坊を抱いて降りて來た。

    「これも、御縁ですからね。此の赤ちやんの幸福つて云ふものですよねえ」

    中年の夫婦者は、すぐ、その赤ん坊をかはるがはる抱き取つて顏をぢつと眺めてゐた。赤ん坊のきりやうの品さだめしてゐるやうで、私は辛くて、その場に坐つてゐられない氣持ちだつた。どんな事があつても、自分だけは、赤ん坊にそんな思ひをさせたくないと思つた。軈て、幾分かの金包を受取つて、その夫婦者は赤ん坊と大きい荷物を抱いて行つてしまつた。若い母親は氣落ちしたやうに、すぐ二階へ戻つて行つた。

    「結構、何んとか、まとまるものですよ」

    一仕事濟んで、吻つとしたと云ふ樣子で、産婆は電氣コンロで、煙草に火をつけてゐる。二階を見せて貰ふと三人ばかり、さつきの若い女をかこんで、ひそひそと話しこんでゐた。どの蒲團も雜巾のやうに侘しくて、戸障子を閉めこんでゐるせゐか、酢つぱい匂ひがむつと鼻をついた。

    頁のめくれた雜誌が散らかつてゐる。小さい赤ん坊の寢床が二つ敷いてある。一つはさつき貰はれて行つた赤ん坊の寢床らしく、そのそばに古ぼけたトランクが蓋を開いたまゝ置いてあつた。

    もう一つの寢床には、色の白い、もう二ヶ月位にはなるだらう女とも男とも判らない赤ん坊が眼をぱつちり開いてゐた。

    四五ヶ月さきには、自分も、こゝに寢るのだと思ふと味氣ない氣がした。

    或ひは、こゝが、私の最後の墓場になるのかも知れないと思ふと、その汚れた産室もなつかしくなつて來る。たゞ、鷄介が、子供を見に來てくれる事はたまらないと思つた。誰も知らないところで子供を産んだ女の宿命を不憫がつてくれる鷄介のしよげかたを見るのは、淋しいと思つた。奇蹟のやうな事は、此世の中では求められないのだ。たゞ、蒔いた種にはちやんとした結果がやつて來ると云ふ現實があるきりだ。いまさら、自分を哀れに思つたり、甘やかしたりしてしまふのはをかしいのである。此世の道徳では不貞そのもので、かうした愛情は、みだらなものとして、卑しめられるに違ひない……。

    私は、さうした卑しめのなかに、身を晒すことはたまらないのだ。

    人の落ちぶれてゆく、云はゞ、非常識な不始末を見て、世間の人と云ふものは、意外にも心ひそかに、意地惡なよろこびを持つものだと思ふ。穽に落ちこんで苦しんでゐる人間を、のぞき込んで、繩一つ投げてくれる努力もしてくれないで、つくつた言葉と言葉で批判しあつてゐる人達を、私はよく知つてゐた……。

    「雨は、なかなか晴れさうにもないね」

    「一生降つてるといゝンだわ……」

    「亂暴な事を云ひなさんな」

    「いけない?」

    「いけないねえ……」

    「時々、こんな、焦々する時があるンです」

    「八月か、九月頃だね?」

    「産れる日のこと?」

    「うん」

    「あなた、その時になつたら、産院へ來て下さる?」

    「行くよ」

    「さう、……でも來ない方がいゝかしら。……あなたが氣の毒だから……」

    「僕が、ついてゐた方がいゝンだらう?」

    「さうね。それだと、有難いけど……」

    産院へ、いよいよ行くとなれば、こまごまとした用意もしなければならない。かうした不自然のなかでは、自分で何も彼も支度をしなければならないと云ふ事が、何時の場合も、女に課せられた不遇さだと思ふと、侘しくなつて來る。

    一日一日と、怖ろしい結果が近づいて來てゐるのだけれども、お互ひに、そんな話はしあはなかつた。何ヶ月かさきの未來を語りあつたところで、どうにもならない事はよく判りきつてゐたから……。たゞ、ぶざまな結果をつくりたくないと云ふ、必死な願ひだけが、鷄介よりも、私の方にずつと強いのだつた。

    「ソーセージ、食べてみない……」

    「えゝ、もう澤山です。梅干で、熱いお茶が飮みたいけど」

    鷄介は默つて、またうつむいた。

    額に亂れた髮の毛が若々しく匂つてみえる。私は、小さいボストンバッグから、梅肉丸を出して、三粒ほど噛んだ。舌の上に酢走るやうな爽快な味覺が殘つた。

    「御苦勞さまだな……」

    「あら、何ですの」

    「うゝん、君の躯が辛いだらうと思ふからね……仕方がないことを、仕方があるやうに考へるンだから、方法もないね。そのくせ、月日は過ぎてゆくんだし、君は、案外、屹立して勝氣でゐるんだもの、手がつけられないよ」

    「ぢやア、どうすれば、一等いゝとお思ひになる?」

    「愛しあつてゐるものは、一緒になる……これより他に方法はないさ。――どうしたつて、誰かがこのことで不幸になるのなら、早い方が樂だらう……」

    「えゝ……でも、私は、やつぱり、いろんな事を考へてしまつて、弱くなつてしまふのですもの。――こんな事を云つて、怒らないで下さいね。私、時々、あなたを殺してしまひたい時があるのよ。どうにもならない程好きだから、あなたや、私の家のものに、一寸でも妙な悲しみを持たせる氣がしないのよ。二人だけの問題なのに、二人のことにかゝはりない人達を悲しませたりするのは、考へただけでもぞつとしてしまふンです。ずるいのね。私の考へのなかには古い古いものが巣食つてゐるンでせうね。卑怯な事かも知れませんけれども、結局は、二人だけのことなのよ。問題は……それを人にまで、惱んでもらふと云ふのは苦しいンです」

    「勝手だな」

    「さうかしら……この考へを、判つて貰ふやうに、ようく云へないけれど、結局は、さうした他人の悲劇がめんだうなのよ――まア、どうにかなるでせうけど……こんな事は、考へないでもいゝわ。どうにかなると云ふ事におまかせしとくより仕方がありませんね……」

    四月とは云つても、雨のせゐか、甲府の郊外はまだ寒くて、手のさきが冷い感じだつた。

    「湯にはいりに行かう」

    「えゝ、一寸、寒くなりましたね」

    鷄介と私は、長い廊下づたひに湯にはいりに行つた。晝過ぎの、廣い湯殿には、誰も這入つてはゐなかつた。

    裸になると、青い筋の這つたやうな、腫れた自分の腹部が、氣持ちが惡く、みにくいものを見た時のやうな、氣持ちの惡い思ひが重く屈して來る。遠くに離れて、私たちは、お互ひの躯をみないやうにして、湯に這入つた。氣持ちのいゝもやが湯殿いつぱいにこもつてゐた。

    「狸みたいに見えない?」

    「うん?」

    吃驚したやうに、足を洗つてゐた鷄介が、湯氣の向うから振り返つた。

    「私、何だか、自分が狸みたいな氣がするのよ。をかしいと思つて……」

    「君は、段々變になつて來るね。自分で、意地の惡い事を考へ出して焦々してゐるよ」

    鷄介はまたうつむいて、足の裏をこすつてゐる。――雨の中を、遠く、遠雷のやうな響きで、飛行機の爆音が聞えてゐたけれど、急に、その爆音がはつとする程近くになり、まるで、湯殿の屋根の上へ墜ちかゝるやうな物凄い轟音になつた。湯殿の窓いつぱい、飛行機の姿をこすりつける、怪物のやうな黒いものが、ごうつと通り過ぎた。

    雨の中を庭に飛び出して行く人もある。

    「ねえ、あの飛行機、墜ちるンぢやないでせうかッ!大丈夫かしら、助けてあげられないものかしら……きつと、墜ちかゝつてゐるのよ。ねえ、あの飛行機、助けて上げてッ……厭だわ!厭だわ……。可哀想よ、この雨のなかを……ねえ、何とかして助けて上げられないものかしら……」

    私は夢中になつて窓硝子を開け、そこにしがみついて、轟々と飛び去つて行つた飛行機をみつめて、激しく鷄介を呼んだ。

    「大丈夫だよ。あれはアメリカの飛行機だもの、優秀な飛行機だから墜ちる事はないよ」

    「そんな事ないわ。アメリカの飛行機だつて、墜ちないつて云ふ事はないわ。乘つてゐるひとが可哀想、助けてあげられないかしら……」

    鷄介は、窓にしがみついてゐる私の肩を抱くやうにして、

    「風邪をひくぢやないか。狂人さん……さア、湯へはいンなさい。躯が冷くなつてゐる。めつたに墜ちるもンぢやないッ」

    「あれは、どうしたつて墜ちる音だわ。昔、私、飛行機の墜ちてゆくのを、田舍で見た事があるンですもの……」

    「大丈夫だよ。馬鹿だなア、君は……」

    鷄介は、タオルで腰を卷いて、

    「この、親子二人は、少々重いな」

    と、私の冷えた躯を輕々と抱きあげ、湯につけた。さつき、あわてて開けた窓硝子から、南風が湯煙を吹き拂ふやうにしてさつと吹き込む。誰かが電氣のスウィッチをひねつたと見えて、くもり硝子の中の、圓天井の燈がぽうつとついた。

    「子供みたいなンだね。湯につけると、君の躯は大きくふくれる……」

    「飛行機が墜ちさうになつても、誰も助けられないつて、變な事だわ……」

    私は廣い湯の中で、鷄介の兩手をつかまへて、ゆるくまはつた。何だか、心のなかが、錯亂してゐたあまり苦しみに耐へてゐると、考へる事が、正常でなくなつて來る。天井の圓屋根が、そつくりそのまゝ落ちて來るやうな異常な怖ろしさが身震ひのやうに躯につたはつて來る。湯のあたたかさで、胎兒が、ぐうつと足をつつぱつてゐる。押されるやうな腹部の痛さを感じる。宿命の小さいかたまりが、頭を下にして呻つてゐる……。誰にも迷惑をかけないで、森閑とをさまりかへつてゐる、孤獨な胎兒の姿が、私には可愛かつた。安心して、あの産院で産まうと思つた。誰にも迷惑をかけないで、ひつそりと産みたいと私は念つた。

    子供を丈夫に生む事さへ出來れば、鷄介もいらない。――時々、二人は、機會があると、澁谷の驛で逢つてゐた。燒け殘つた街のなかをゆつくり歩きながら、いつまでも默つて歩いた。いつも歩く道で、丘のやうに見晴しのいゝところへ來ると、燒け跡の捨石に腰をかけて、賑やかな市の立つ街を眺めてゐたものだつた……。

    先に湯から上つた鷄介は、遲い身支度の私を待つてゐてくれた。

    「ほら、誰も、飛行機が墜ちたなンて騷がないだらう……」

    「上手に着陸したのね……」

    「なかなか、墜ちるものぢやない」

    部屋に戻ると、早い夕飯の膳が出てゐた。膳の上はいかにもとぼしいこしらへである。雨はまだしよぼついたやうな降り方をしてゐた。私達は、もう一晩泊る事にきめた。一日生きのびた人間のやうに、二人は自然に微笑みあつた。その微笑のなかには、何の感傷もなかつた。いびつな卓子に向きあつて、食事をしながら、私は、始めて、二夜も家を明けることに胸さわがしさを感じ、明日、家に戻つたら、何も彼も良人に話してしまひたいと思つた。波はくだけ散つてしまつたのだ。再びもとへは戻れないところまで、しぶきが遠く散つて行つたのだ。

    洪水のやうに、皆が、揉みあつて歩いて行く……その中を、私も必死になつてよろよろとついて行くのだ。幾千の人の顏が、惱み多い姿で浮んで來る。無意識に前へ押されて進んでゆくより仕方がない……。この戀の爲に、自分の生涯が一生埋れたところで、何の悔いがあらう……。

    一日中、雨に隱れて富士山は見えなかつたけれども、晴れさへすれば、ぢき眼の前に巨きい山があると云ふことだつた。二階から見降してゐると、黄昏の雨霧に、廣々とした青い麥畠が鮮やかに展けてゐた。

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